【carpaccio】 A面−1



人気の無くなったドッグの傍らにルッチの長い影が伸び、その存在を主張している。
普段なら大人しく肩に止まっているハットリでさえ頭をクルクル回したり時折羽を動かしたりしているのだ、相当長い時間そこにいるのが伺えた。
金がないのでいつもにならい、ブルーノの店で美味いものでも奢らせようと思っていたのだが、この状況だと何となく声を掛けづらい。
それが何故だかわからないから困る。
心配するような事はないはずだ。
今日だっていつもと一緒だった。相違ない。

よしと気合いを入れて、ルッチ、と発音すると、当の本人はこちらを向かずにハットリだけがチラリと視線を送り、羽を器用に折り曲げた。

『なんだ、お前まだ帰ってなかったのか?ポッポー』

その台詞全てをひっくるめて返してやりたいと心から思う。
だが心配事なんて感じない口調から、やはり先程感じたものが杞憂だったと少しの安堵を覚える。

第一どうかしているのだ。
ほんの一瞬でも、ルッチの影が薄くなったような気がしたなんて。
このまま消えてしまいそうに思えたなんて。
だがそんな事を考えていた頭をボリボリとかきながらだったお陰だろうか。
思った以上に緊張感の無い声を出すことができた。

「お前こそ、なーにしてんだ?みんなもうとっくに」
『夕食を』
「…は?」

いつだって、そうだ。
突拍子もない事を平然と口にするのは。
例えばそれが見慣れたこの街の水面のように緩やかに、時に激しく移り変わる感情だとして。
それを差し引いてもルッチは変わることなく腹話術でハットリが喋っている風を装っただろうし、自分はそれを横目に笑ったり怒ったり茶化したりしただろう。

つまりは言葉を遮られたのは別段不快ではなかった。

『ルッチは夕食を考えてたんだッポ』

問題は、その真意だ。

どうやら思惑に乗ってくれそうにないルッチをこのままぐずぐずと残しておく訳にもいかず、とりあえずドッグを出るように促した。
頭上から一つ二つ余計な言葉が聞こえたが、返答しないのは聞いていないのに等しい。
よってハットリの、もといルッチの言葉はゴーグルを通過する前に髪に溶けるだけだった。
それが何だか無性にくすぐったく感じて少しずつ歩みを早めたが、あくまでマイペースを崩さないルッチの影をどんどん登っていくだけでつまらない。
長い影が更に長くなり、平面のシルクハットがヒョコヒョコと動いている様が滑稽に見えるのはあまりに久しぶりで、多くの些細な出来事を、子どもの頃の小さな宝物を見失っていた今の自分にいささか驚いた。
そんな事を考える自分にもっと驚いた。
前を歩いているのでルッチが着いてきているのか、それともたまたま同じ方向に行くのかは定かではなかったが、少なくともこの長いルッチの影が自分の足に踏まれ続けている間は何も言う必要はないだろう。
よくよく考えてみてもみなくても、ルッチはもともと変わっているのだ。
それに自分も頭を使うのはそう得意ではなかったから、深く理由を追求する事もなく、ただひたすらブルーノの店へと足を向けた。



「いらっしゃい」

半分開いた目でおっとりとカウンターを掃除していたブルーノは、口にこそ出していなかったがどう見てもやれやれと顔で言っていた。
店に入る前からやけに静かだとは思っていたが、そういえば人の気配がない。

「景気悪ィな。今日は休みだったか?」
「今日は用事があるから8時までなんだ。…以前から言っていたはずだ」
「あーそうかー…悪ィ、忘れてた」
「だろうな」

別に期待していない、とルッチならきっと言う。

「…なぁ、一杯くらいダメか?」
「もうすぐで出るからなぁ…。……まぁ、一杯くらいなら」

結局着いてきたルッチとオレとを交互に見て、ブルーノは綺麗に片付けたばかりの席を勧めてくれた。

「サンキュー」

客が好んで使う席を覚えている事も、無理を通してくれる所も、時折無償で仕事明けの一杯を提供してくれる所も。
酒場の店主としては最高だ。
そんな酒場の店主は忙しい身分なので、程なくしてエスプレッソを2つ並べて寄越し、奥に引っ込んだ。

「メシ、どうしよっかな…」

差し出された中身を早々に半分にした所でポツリと呟き、ルッチを見た。
船大工にしてはゴツゴツしていない長く小綺麗な指がカップの前で緩く組まれている。
それはいつもの姿なのだが、今日に限って祈りのような姿に見えたのはきっと先程の後ろ姿が瞼の裏に焼き付いてしまったからだろう。
捨て猫のようなと例えるのは可愛らしすぎるので、今はとりあえず止めておく。

『何見てんだクルッポー』

そうだ。こんな可愛げのない捨て猫なんているもんか。

「お前さぁ、晩メシ決まった?」
『…決まったとしても、お前に食わせるメシはねェ』
「んだよォ、冷てェヤツだなーお前は!」

家に帰った所で冷蔵庫にある食材などたかが知れている。
大量に買い置きしていたにもかかわらず、パスタは昨日で切れてしまったはずだ。
昨日はカクのオゴり、もとい貸しで乗り切った。
給料日は明後日。
とてもじゃないが、耐えられない。
だがアイスバーグさんだけには頼りたくないのでドッグから少し距離はあるが、ブルーノの所に避難して大人しく明後日を待つ他ないだろう。

冷えた残りの半分を一気に飲み干し立ち上がると、ハットリがクルルと鳴いた。

「帰るか」

ルッチの黒髪に顔をうずめるハットリは、至極満足げな顔をした。



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